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東京高等裁判所 昭和48年(う)3048号 判決

被告人 千重烈

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人松浦基之、同佐々木秀典が連名で提出した控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官土屋誠士が提出した答弁書に記載されたとおりであるから、いずれもこれを引用する。

一、控訴趣意第一、一(事実誤認の主張)について。

所論は、原判決は、被告人が巡査小幡徹に対し暴行を加えて同人に対し全治約四日間を要する左大腿部打撲傷の傷害を負わせたものと認定しているが、被告人は小幡に対し同判示のような暴行を加えた事実はなく、かりに被告人に有形力の行使とみられる行為があつたとしても、右の傷害が被告人の行為によるものであると認めるのは困難であつて、原判決は信憑性のない証人小幡徹の証言を採用した結果事実を誤認したもので、右の誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

しかし原判決挙示の諸証拠によると、原判示事実のうち、被告人が同判示の日時ころ、同判示の場所において、巡査小幡徹の胸倉を手で掴んで左右にゆすり、その腹部を手拳で突き、その左大腿部を膝で蹴るなどの暴行を加え、よつて同人に対し全治約四日間を要する左大腿部打撲症(同判示中に打撲傷とあるのは誤記と認める。)の傷害を負わせた事実はこれを肯認することができる。右証拠中の原審第一回及び第二回各公判調書中の証人小幡徹の供述部分は、右の暴行及び傷害の事実を具体的かつ明確に供述したものであつてその信用性に欠けるところはなく、たとえ医師の診察と治療を受けた時刻の点について、所論指摘のとおり、原審第二回公判調書中の証人佐藤信博の供述部分とそごする部分があるにしても、これが前記の暴行及び傷害に関する供述部分の信用性を左右するものとはいえない。

その他原審記録を精査し、当審における事実取調の結果を検討しても原判決に所論のような事実誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

二、控訴趣意第一、二(事実誤認の主張)について。

所論は、原判決は、小幡巡査が被告人の右手首を掴んだ行為は小幡巡査が被告人に対し任意同行を求める以前に行われたように認定しているようであるが、原審第一回公判調書中の証人小幡徹の供述部分からしても小幡巡査は被告人に対し任意同行を求めた後に被告人の右手首を掴んだものであることが明らかで、原判決には右の点で事実の誤認があり、右の誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

しかし、原判決の(弁護人の主張に対する判断)のうち、証拠によつて本件の経緯を認定した部分をみると、小幡巡査が被告人に対し派出所への同行を求めたところ、被告人が立ち去ろうとしたので、同巡査は被告人の右手首を掴んだ旨認定していることが明らかであるから、所論はその前提において失当で、採用することができない。

三、控訴趣意第二(理由不備または法令適用の誤の主張)について。

所論は、原判決は、小幡巡査の職務行為は適法性を欠き、これに対する被告人の行為は正当防衛であるという弁護人の主張に対し、小幡巡査の行為は職務質問、任意同行の要件を具えているとするだけで、弁護人が右主張の理由として述べた小幡巡査の行為が強制にあたること或いは個人の自由を犠牲にしても保護すべき国家的利益はないという点について判断を示していないので、原判決は刑訴法三三五条二項に違反し、判決に理由を附さない違法または判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤がある、というのである。

しかし、原判決は、(弁護人の主張に対する判断)において、小幡巡査の職務行為は適法性を欠き、これに対する被告人の行為は正当防衛であるという弁護人の主張に対し、小幡巡査の行為を警察官職務執行法二条に基く適法な職務行為であると認め、弁護人の正当防衛の主張はその前提を欠くので採用することができない旨説示しており、弁護人の主張を採用しない理由に関しては所論指摘の点も実質的な判断要素として考慮したうえ説示されていることが窺われ、右説示の精細の程度、その内容の当否は別として、刑訴法三三五条二項に基づき示すべき理由としては欠けるところはなく、原判決に所論のような違法はない。論旨は理由がない。

四、控訴趣意第三(法令適用の誤の主張)について。

所論は、原判決は、小幡巡査は、深夜の警邏中道路上において回りをきよろきよろ見ている被告人の姿を認めたというのであるから職務質問を開始する要件を具えており、また深夜の路上における職務質問の際であることから、派出所への同行を求めたことも適法であると説示しているが、被告人は、小幡巡査に対し、鄭の家を探していると説明しているので、被告人が回りをきよろきよろ見ていた点についての不審は解消しているはずであつて、被告人が何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由があるとはいえないので、小幡巡査が被告人に対し職務質問をする要件は具わつていないし、またその場で質問をすることが被告人に対して不利であり、或いは交通の妨害になると認められる事情もないので、小幡巡査が被告人に対し任意同行を求める要件も具わつていないのであつて、原判決が小幡巡査の行為を警察官職務執行法二条に基く適法な職務行為であると判示したのは法令の解釈適用を誤つたもので、右の誤が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、まず原審記録及び当審における事実取調の結果を総合すると、本件の事実関係は次のとおりであることが窺われる。

巡査小幡徹(以下小幡巡査という。)は、昭和四六年一月警察学校を卒業し、直ちに警視庁麻布警察署に配属され、同署管内の一の橋派出所に外勤係として勤務していたものであるが、昭和四八年四月二〇日午前三時ころ、制服の上に警察官用の革製のコートを着用し、自転車に乗つて同派出所管内の警邏に出たが、同日午前三時二〇分ころ、東京都港区東麻布二丁目二五番二号先の交差点付近にさしかかつた際、右交差点近くの道路端に立ち止つて回りをきよろきよろ見ている被告人の姿を認め、深夜、路上における不自然な態度から窃盗でも犯そうとしているのではないかという疑いを抱き、自転車を降りて被告人に近付き、「何をしているんですか。」と尋ねたところ、被告人は「家を探しているんだ。」と答えたので、さらに「何という家ですか。」と尋ねたのに対し、被告人は「テイという家だ。」と答え、同巡査が「そのような人は知らない。」というのを聞いて、そのまま歩いて立ち去ろうとした。そこで同巡査は、「ちよつと待つて下さい。」といつて被告人を呼び止め、名前を尋ねたところ、被告人は「川原」と答えたが、同巡査は、被告人の容貌から日本人ではないなと感じていたので、右の答に不審を抱き、その真偽を確かめるため、被告人に対し「背広に入つている名前を見せてくれ。」といつたところ、被告人がこれを承諾したので、その着用していた背広上衣の襟裏をめくつて見ると、「嶺」と刺繍がしてあり、被告人が答えた姓と異るので、「これはどうしたものか。」と尋ねたところ、被告人は「今井さんから貰つたのだ。」と答え、「どういう関係の人か。」と尋ねたのに対し、「友達だ。」と答えたが、その住所を聞いても被告人は、これには答えず、内ポケツトから名刺入れのようなものを出して、名刺のようなものを出そうとしたが、そのままこれを引つ込めてしまい、歩いて立ち去ろうとした。そこで小幡巡査は、右の状況と被告人の態度から、被告人の着用している背広が盗品ではないかという新たな疑いを抱き、被告人のいう姓と背広上衣の記名が一致しない点を明らかにするため、被告人に対し「派出所まで来てもらえますか。」といつたところ、被告人は「おれは何もやつていない。行く必要はない。」といつて前記派出所とほぼ反対方向に歩いて立ち去ろうとしたので、同巡査は「待ちなさい。」といつて右手で被告人の右手首を掴んだところ、被告人は「うるさいおまわり。」といつて同巡査の方を振り向き、同巡査のコートの両襟を両手で掴んで左右にゆすつたので、同巡査はこれを両手でふりほどき、立ち去ろうとする被告人に対し「ちよつと待ちなさい。」と声をかけたところ、被告人は再び同巡査の方を振り向き、「何をこのおまわり。」といつて手拳で同巡査の腹部を突いたうえ、右膝で同巡査の左大腿部を蹴つたので、同巡査は、同日午後三時三〇分ころ、直ちにその場で立ち去ろうとする被告人の背後から両手をかけて押さえつけて路上に倒し、公務執行妨害の現行犯人として逮捕したもので、同巡査は被告人の右暴行により全治約四日間を要する左大腿部打撲症の傷害を負つたものである。

右の事実関係によると、被告人は、小幡巡査が外形上警察官として職務を執行中に同巡査に対し暴行を加えたものであることは明らかであるので、以下小幡巡査の右の職務行為が適法であるかどうかについて検討する。

まず、小幡巡査は、前記のとおり、被告人が窃盗でも犯そうとしているのではないかという疑いを抱いて被告人に職務質問を始めたのであるが、時刻が深夜の午前三時過ぎで、場所は全く人通りのない人家の近くの路上であり、被告人の態度は回りをきよろきよろ見ていたというのであるから、右のような当時の状況からすれば警察官としてはこれに不審を感じ、被告人が窃盗を犯そうとしていると疑うに足りる理由があつたものといつてよく、ただ右の理由が警察官職務執行法二条一項にいう相当の理由という程度であつたかどうかについては若干の疑問がないではないが、小幡巡査が静止している被告人に対し職務質問を開始したことをあながち不適法であるということはできない。もつとも、原審記録及び当審における事実取調の結果によると、被告人は、白ワイシヤツの上に上下揃いの背広を着用し、革靴を履き、ネクタイははずして上衣のポケツトに入れ、他には何ら所持品を有していなかつたことが認められ、小幡巡査の最初の質問に対し、被告人が「テイ」という人の家を探していると答え、これに対し同巡査において被告人がテイという家を探しているのが真実かどうかという疑いを抱いたうえでの質問を行つた形跡はないので、被告人が窃盗を犯そうとしているのではないかという疑いは比較的弱いものであつたと認められる。

次いで小幡巡査は、前記のとおり、被告人の名前を尋ね、その着用の背広上衣のネームを確かめたところ、被告人の答えた姓と右のネームが一致せず、しかも右背広はさらに異る姓の友達から貰つたということを聞き、被告人が右の友達の住所は答えずそのまま立ち去ろうとしたことから、前記の疑いに加え、右背広は盗品ではないかという新たな疑いを抱いたというのであるが、右の疑いというのは、警察官職務執行法二条一項のうち、被告人が犯罪(窃盗)を犯したという疑いか、被告人が既に犯罪(窃盗)が行われたことを知つていると認められるというのか明らかでなく、被告人が背広上衣のネームと異る姓を挙げたのはかえつて作為的でないともみられ、また被告人が立ち去ろうとした態度も歩いてであつて、逃げようという様子ではなかつたことが窺われ、さらに具体的な犯罪による被害事実があつたことを念頭にしていたわけでもないことなどから考えると、盗品である背広上下を着用してさらに窃盗を犯そうとしているという疑いは必ずしも合理的なものであるといえない面のあることを否定することはできないが、当初からの状況及び被告人の質問に対する拒否的態度から考えると、同巡査としては、その手段、方法の点はしばらくおき、前記の疑いをはらすためさらに質問を続行することが許されないものとはいえない。

ところが、小幡巡査は、前記のとおり、右の質問を続行するため、被告人に対し派出所への同行を求めた。警察官職務執行法二条二項は、その場で質問することが本人に対して不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合に、質問するため附近の派出所等に同行することを求めることができると規定しており、本人が自発的に右派出所等に赴く場合のほかは右の要件を具えない限り、任意同行を求めることは許されないところ、証人小幡徹の原審及び当審公判廷における供述によると、当時小幡巡査が被告人に対し職務質問を行つていた場所は人通りは全くなく、その場で質問することが被告人に対して不利である事情はないし、また他の交通の妨害となるような状況もなかつたことが認められる。証人小幡徹は、当審公判廷において、「あくまで任意的であつて、被告人の着衣である背広の記名と被告人のいう名前と一致しないのでその点を明らかにするために派出所へ任意同行を求めたわけです。」と供述しており、右供述の経緯からみると、小幡巡査は、被告人に任意同行を求めるに当り、果して、前記の要件を念頭においていたかどうか疑わしく、被告人はそれまで二度も立ち去ろうとして質問に対する応答を拒否する態度を示しているのであるから、小幡巡査が被告人に対し自発的な同行を促す意思であつたものとは認められない。結局小幡巡査が被告人に対し派出所への同行を求めた行為は、警察官職務執行法二条二項の任意同行であつて、その法律上の要件を具備しない点で職務行為としては不適法であるといわなければならない。

ところで、小幡巡査は、前記のとおり、派出所への同行を求めたのに対し、被告人が「おれは何もやつていない。行く必要はない。」といつて派出所とほぼ反対方向に立ち去ろうとするのを見て、さらに、「待ちなさい。」といつて右手で被告人の右手首を掴んだのであるが、右の被告人の手首を掴んだ行為の意味を考えるに、それが口頭で任意同行を求めた直後の行為である点からすると、任意同行の意思を実現する手段であるという所論もあながち否定しがたいものがある。しかし、証人小幡徹は、原審第二回公判において、「警職法の職務質問では被告人の手を掴むということができるのでしようか。」との問に対し、「できます。質問の続行です。」と答え、「押えることは質問ではないですね。」との問に対し、「それは制止になるのではないですか。」と答え、原審第一回公判において、被告人の手を掴んだ程度について、「強くですか。」との問に対し、「いや制止させる程度です。」と答えており、右の「制止」というのは警察官職務執行法五条にいう制止ではなく、同法二条一項の停止のことであると解され、結局小幡巡査は、派出所と反対方向に歩いて立ち去ろうとする被告人に対し翻意を求めて質問を続行するため被告人を静止状態におくことすなわち停止させる行為として被告人の右手首を掴んだものとみるのが相当である。

それでは、被告人に対してなお右のように停止させて質問を続行することが許されるものであつたであろうか。いうまでもなく、警察官職務執行法二条一項の警察官の質問はもつぱら犯罪予防または鎮圧のために認められる任意手段であり、同条項にいう「停止させる」行為も質問のため本人を静止状態におく手段であつて、口頭で呼びかけ若しくは説得的に立ち止まることを求め或いは口頭の要求に添えて本人に注意を促す程度の有形的動作に止まるべきで、威嚇的に呼び止め或いは本人に静止を余儀なくさせるような有形的動作等の強制にわたる行為は許されないものと解され、同条二項もこの趣旨から特に規定されたものというべきである。これを本件についてみると、前記のとおり、小幡巡査は、歩いて立ち去ろうとする被告人の背後から「待ちなさい。」という言葉に添えて、右手で被告人の右手首を掴んだもので、その強さは必ずしも力を入れたという程ではなく、それは被告人の注意を促す程度の有形的な動作であると認めることができる。証人小幡徹の原審及び当審公判における供述によると、右の当時はすでに当初の職務質問の開始から一〇分近く過ぎており、その間小幡巡査の被告人に対する質問は前記のとおりであつて、被告人の住所、年令、職業等の質問はせず、被告人が日本人ではないなと感じながら、外国人登録証明書の呈示も求めていないのである。そこでこのような職務質問の推移及び小幡巡査が被告人に対し抱いた前記の疑念の程度から考えると、小幡巡査が右のような有形的動作によつて被告人を停止させて質問を続行する必要があつたかどうか、同巡査は応答を拒否して少くとも三度までもその場から歩いて立ち去ろうとした被告人に対しその翻意を求め、説得する意思であつたのかどうかについて若干疑問があり、具体的な犯罪による被害事実があつたことを念頭にして被告人に対し疑念を抱いたわけでもない小幡巡査としては、この段階において職務質問を中止するのが妥当であつたというべきで、執拗に質問を続行しようとした同巡査の行為は行き過ぎの謗を免れない。しかし、前記のとおり、同巡査の行為が職務質問の続行のための停止にあたるという点で、当時の客観的状況をもとに考えると、いまだ正当な職務執行の範囲を逸脱したものとまではいえないので、小幡巡査の前記職務行為は適法であると考えることができる。

したがつて、原判決が小幡巡査の職務行為は適法であるとし、被告人の行為が正当防衛であるとの主張は前提を欠くものと説示し、被告人の前記行為を公務執行妨害罪及び傷害罪にあたるものとした点には所論のような法令の解釈適用の誤はないものというべきである。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文を適用して被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

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